私は古き良き時代を取り戻したいと思っています。
古き良き時代とは、今とは違う良さが昔にはあったということです。
戦後復興しようと必死になって物作りに励まれた昭和の先代達のおかげで今に至るし、そのおかげで文明が発展してきたことは、もちろん感謝しています。
だけど最新のテクノロジーは、私達に夢を見させてくれる反面、失われてはいけないものが失われている側面もあると感じています。
私が子供の頃は、近所付き合いなども頻繁にあり、挨拶はもちろんだし、母が夕飯のおかずを作り過ぎた場合に近所に分けにいったりだとか、貰い物をして多いので近所に分けにいったりだとか、子供の頃の私が悪いことをしても、近所の方や友達の親も愛を持って叱ってもらったものです。
当たり前ですが、我が家は今もこれをしています。
でも巷では、隣に誰が住んでるか知らないとか、近所の人でも挨拶しないとか良く耳にします。
便利なものが増えて、人の支えが無くても生活できる便利さがそうさせてるのでしょうね。
昔はコンビニもなかったので、電池が無くなったり、醤油がなくなったりすると近所の仲のいい家に借りにいったりしたものです。
現在だと借りに行くと相手に悪いから、車を走らせてコンビニ行こうってなりますもんね。
そもそもコンビニって人も足りてないのに、24時間交代勤務して営業する必要ってあるの?その日の夜使う物を考えて、日中に買うことはできないの?って思っています。
そこまで考えることを省く便利さって、必要?と思います。
便利にすることで、人が考えることを退化させてるんじゃないかとすら思えます。
なんだか寂しい気がする今日この頃です。
なので今日は自分が教育に向き合うための勉強を含め、少し教育にフォーカスして話してみようと思います。
私の独自の意見なので、あくまでもこれが正しいとか主張したいわけではないですが、人と人がお互いに感謝しあい愛情をもって接し、自分一人で生きてないんだってことに、自分さえ良ければいいと思ってる人に気づいて欲しいなぁという私の思う所を真剣に書いてみたいと思います。
学校の先生
私も学生時代の先生方には、よく怒られました。
中学時代もタバコを見つかり、職員室で先生に蹴飛ばされたり、授業中げんこつくらったり、チョークなげられたりとよく怒られました。
でも自分が悪いことをして、親の変わりに叱ってくれるってありがたいことですよね?
私はどうしようもない悪ガキだったので、叱ってくれた先生達には大変感謝しています。
今はよく暴力を振るわれたとか、怒鳴られただとか騒ぐ親(モンスターペアレント)がいるらしいですが、その子の未来を想って愛情をもって叱ってくれるのに何が悪いのかな?と思います。
自分の子が叩かれただとか、こんなこと言われたとか親が騒ぎ立てて、自分の子を糺してくれてるのに、私からするとありがとうじゃないの?って思っています。
もちろん先生が自分の感情で叱るのは、問題だとは思いますが、そういう先生ばかりではないはずです。
問題なのは自分の感情で叱る先生か、愛情をもって叱ってくれる先生かで、全く違うとおもうんです。
それを「先生が我が子を怒鳴る」と問題提起を一つにして騒ぎ立てるから、愛情をもって叱ってくれる先生が何も言えなくなってしまうんだと思います。
なので、親の変わりに愛情をもって叱ってくれる先生が増えていく環境を整えていく仕組みができたらいいなと願っています。
親子関係
私も昔は親に猛反発して、18歳で家を飛び出しました。
現在は親とも仲は良いですが、当時は本当に実家にいるのが嫌で、高校出るのと同時に一人暮らしを始めました。
親子の場合でも同じですよね。
その子の未来を想って「こうしたほうがいいんじゃない?」としつけるのと、「昨日も言ったじゃないの!」と感情で言うのでは大きく違うと思います。
私が教育についてしゃべるのも恐縮ですが、叱る、しつける以上の愛情が足りてないと、子供は反発したり、親に気づいて欲しいと行動をしたり、自分を守る行動を本能的にするんじゃないのかなと思っています。
なので子供を良く観察し、何かいつもと違う行動をしていたら、何かあるんじゃないかと疑うべきです。
これは私がしてるわけではないですが、妻が子供のちょっとした変化によく気づいてくれるので、凄いなぁといつも尊敬しています。
そのお陰で、私は安心して外で仕事が出来ています。
子供のことを心配せず仕事できるのは、妻のお陰で心から感謝しています。
また、大量の愛情を注がれて、その愛情を受け取れてる子供なら、厳しいことを言われても頑張れると思うんです。
愛情も足りてないのに、ただ厳しいことだけを言い続けてると、子供は自己防衛行動するために反発したりと本能的に表現するんじゃないのかなと思います。
厳しいことを言ってる親も、たしかに正論を言ってるし、間違ったことを教えてないのはわかりますが、子供がそのしつけを受け取れるほどの愛情をもらってないと、受け取れないんじゃないのかな?って感じています。
場合によっては、親が愛情を注いでるつもりでも、子供がそれを愛情として受け取れてないってことも大いにあると思います。
なので私も妻も、なるべく多くの愛情をかけられるように、日々を過ごしています。
そのお陰で今は、毎日笑わない日は100%と無いとはあえて言わないようにしますが、99%でもかなり100%に近い日々を送っています。
本当に毎日が楽しいです♪
私も帰ったら癒されますし、仕事が大変でも、帰ったら家族がエネルギーを満タンにしてくれます。
また、子供はどんどん成長してしまうので、いつも妻と3人目の娘を見て、まだ2歳なんですが、「あーもうこんなしゃべれるようになっちゃったね」と嬉しい反面、妻とは私達の最後の子供だから、子育てを楽しもうと話していましたので、寂しさも感じています。
私が思う教育とは、相手の未来が良くなるように支えてあげる、自分の力でできるように導いてあげるのが教育だと思っています。
たしかに言うことを聞かなかったり、親は親で自分の問題を抱えてる時に、子供が反発するとイライラをぶつけたりすることも親も人間なのであるかと思いますし、他にも親自身がそれだけの愛情を受けてこなかったとしても、自分がされなかった分、子供に無償の愛情を注いであげたらどうでしょうか?
見返りを求めず、過度な期待をしすぎず、愛情を注いであげれば、親子関係は良くなる結果しかないと私は勝手に考えています。
もちろん私もまだまだ未熟者なので、異論等ございますでしょうが、あえて一つの考えとして、私の考えを書かせて頂きました。
職場環境
職場でも同じですよね。
自分が期待してる成果を仲間があげてこないことでイライラして言うとか、私も昔はそういう事例は多々ありました。
最近は信頼し合える仲間が増えてきたせいか、私が成長できたせいか、どうやったらその人が良くなっていくかな?伸ばせるかな?と考えられるようになってきました。
自分さえ良ければいいって思ってた人が居なくなってきて、信頼できる仲間が多くなってきたから、自然と私もそうなれてきたのかなと思っています。
なので信頼できる仲間っていうのが、本当に尊いものだなと実感しています。
私も自社(道路工事、外構工事を営む会社)では、技術力より人間性を重視して採用していますので、自分さえ良ければいいという考えの人は、当社では務まらない現実があります。
自分さえ良ければいい人が工事をすると、自分さえよければいい構造物が出来上がります。
なぜなら作る人が、自分のことしか考えてないので、ユーザーがその先使うことなど考えないからです。
なので、当社ではいつも使う人の立場になって、考えなさいと指導しています。
何事もそうですよね、相手に伝える言葉も、相手のためのプレゼントでも、相手のためになにか作るのも、全て相手のことを忖度した上で渡して、相手の求めてるものと一致したときに喜ばれますよね?
自分が良いと思っても、相手が良いと思わなかったら、それはエゴですよね。
最近は当社でも従業員の家庭環境が、入社する前と大きく変わったという人が非常に増えていて、そういう環境を提供できる職場を作れて良かったなあと実感しています。
もちろんまだまだ改善しなきゃいけない課題も沢山ありますので、奢ることなくもっと楽しい職場環境を提供できればいいなと思って努力しています。
最近政府が力を入れてる働き方改革も、ただ時間を減らすのではなく、それよりも愛の無い職場環境を、改善するための改革をするべきだと思っています。
一部の愛の無い、従業員をロボットくらいにしか思ってない会社のせいで、ただ時間を減らせって言うのは、改革になってないでしょ?って思っています。
なので、もっと愛をもって会社運営できる世の中になれば、そういう心無い企業も減り、日本全体の企業力は増していくのではないかと思っています。
競い合うあまり、大切なものを見失わないようにしたいと思います。
まとめ
結局、全ての人間関係は愛情ありきなのかなと思います。
私も他人にそこまで出来てるの?
と問われると、正直まだまだできてないと思います。
でもテクノロジーを追いかけて、猪突猛進するのではなく、一度原点回帰して何か大事なものを忘れてきていないか、踏みとどまって考えることは必要じゃないのかな?と思います。
5Gの電磁波等も強すぎて、人体に物凄く影響があると聞きました。
魅力的な側面もありますが、その裏で人が死んだり、病気になったりと犠牲があるテクノロジーって本当に必要なのかな?と考えさせられます。
私の勉強不足で、あまり上手く伝えられたかどうか心配ですが、自分の勉強のつもりで書いてみました。
私ももっと人に愛情をかけられる大きな器になれるように、努力したいと思い精進します。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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